壁の飾りをかえました。
宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」昭和47年、作詞:宮史郎、作曲:並木ひろし
昭和47年演歌の大ヒット曲です
ジャケット写真、赤スーツ3名がトリオです、向かって左が作詞&ボーカルの宮史郎、中央がギター宮五郎(史郎の兄)、右が作曲の並木ひろし。そう、この歌は曲作りもレコード作り・販売も自主制作だったのです。音曲漫才トリオとして活動、10周年記念に本曲を制作、300枚プレスしキャバレーなどの営業で手売り、そして有線放送をきっかけに人気大爆発。オリコンデータによると325.6万枚売れたそうです。1972年、73年連続で年間売り上げ1位の大記録を立てました。
それにしても、歌詞、曲、歌唱すべてが演歌的です。詞は当時としても既に時代錯誤な世界。歌唱はダミ声と過剰なまでのこぶし、ビブラートを利かせています。作曲も典型的旋律と楽器構成。そう、この曲は元から演歌の特徴的な形式だけを取り出した、いわばパロディ曲として作られたのだと考えてよいでしょう。
演歌というジャンルは1969年藤圭子の頃は、アウトロー的なテーマを持ち、体制に抵抗する若者からアンダーグラウンドな支持を得て、最先端の文化のひとつでありました。その後演歌は大衆に消費されるなかで徐々に様式美となってきたわけです。パロディ的な曲が作られることがそのことを示しています。なお「女のみち」スタイルは「ド演歌」などと言われることもあります(1)。
同時代の日本ポップスと並列してみると、67-72年頃はGSの流行があり、また洋楽を取り入れたポップな歌謡曲も多く生まれ、日本のポップスが洋楽的視座からすると大きく進化してゆく時代でした。他方ではこのあたりの時代から「演歌」だけが切り離され独自の発展をしていったと言えましょう。
さて、ジャケットの写真、前列紺色スーツ2人の紳士は誰なのでしょうか?「トリオ」なのになぜ5人?実はこの2人、単なる店のお客さんだったそうです。「女のみち」をメジャーのコロンビアから出すことになり、急いでジャケット写真を送らねばならず、急遽営業先の店でお客さんと撮った写真だそうです(2)。お客さんはまさか320万枚も顔を晒されるとは思っていなかったでしょうね。
皆様ぜひ「女のみち」をお聴きになって、「演歌」の進化過程につき思いを馳せてください。
2024年もブログにおつきあいくださりありがとうございました。皆様よい年末をお過ごしください、そして幸せな新年をお迎えください。2024/12/18(院長)
(1)同様のスタイルでヒットしたのが73年殿様キングス「なみだの操」。
(2)チャッピー加藤「昭和レコード超画文報1000枚」2021年、出版社:303BOOKS
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