壁の飾りをかえました。
藤圭子「女のブルース」昭和45年2月5日 作詞:石坂まさを、作曲:猪俣公章
日本ポップスの歴史の流れの中で「演歌」というのは昭和40年頃から作り出された概念あるいはジャンルなのです。大きな流れで言うと戦後歌謡曲が色々な系列を派生したわけです、洋楽ポップス系、ラテン系、青春もの、民謡もの、浪曲ものetc.その中でレコード会社が売り出すための戦略として「演歌」というキーワードを創り出したのです(1)。「演歌」が生み出された経緯について詳しくは大阪大学文学部教授の輪島裕介先生の書物「作られた「日本の心」神話 光文社新書2010年」をぜひ読んでください。
藤圭子さんは、ちょうど「演歌」が出始めたころの大ヒロインです。時代は学生運動が盛んな頃、若者たちから藤は支持を受けました。まず彼女の不幸な来歴が理由の一つです。彼女の両親は旅の浪曲師、旅回りの巡業に連れられ貧しい生活であったと言います。後のマネージャー石坂まさをに見いだされ、昭和44年18歳でRCAビクターから「新宿の女」でデビューしました。そして当時としては例外的な売り出し方も共感を得ました。当時のレコード会社の専属制度から逸脱しマネージャーが作詞作曲し、新宿のレコード店や飲食店で手売りキャンペーンを行っています。これが体制に抵抗する若者たちの姿と重なり共感を得たのです(2)。歌のスタイルはご存知の通り、こぶしと唸りそしてドスの利いた歌声で彼女にしか出せない味です。女の悲哀、やるせなさ、怨念を歌う。これがアウトローの悲哀に繋がったのも共感を得たのです。
1stアルバム「新宿の女」は20週連続1位、2ndアルバム「女のブルース」は17週連続1位。また五木寛之の小説「艶歌」に登場する少女歌手が藤圭子のようであり人気を後押ししたと言われます。さらに同時期、若者のカウンターカルチャーを体現していた「少年マガジン」に藤圭子は2回表紙を飾っています(昭和45年10月18日43号と46年3月14日11号)。画像をみるとポップアートになっているのです。まさに時代のアイコンであったわけです。
皆様機会がありましたら最先端であった藤圭子さんの「演歌」をぜひお聴きください。(2024.12.4院長)
(1)ただし演歌という言葉は新語ではなく、元々別のものを指していました。
(2)刑部芳則「昭和歌謡史」中公新書2024年
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